取材者が創るプロフィール 
〜人それぞれの「オーラ」を求めて〜



河原 多加男さん 〜魅せる“技”を明日へ継ぐ経営〜


河原 多加男さん  昭和25年7月3日  京都市生まれ
              株式会社 河原勝庭園 代表取締役
              京都健康住まい研究会 会員

【事務所にて】 【自宅兼会社】


【尼崎市大覚寺 弁天前滝石組工事】 【大宮御所 御常御殿 御内庭の白梅移植工事】

 
 
 京の西、夢想疎石が築いた庭(特別名勝・史跡)に120余種の苔が美しい苔寺と呼ばれている 西芳寺がある。その苔寺のバス停のすぐ左手、東海自然歩道の石段を登り、竹林の道を行くと
竹の寺と呼ばれている南北朝時代に建立された地蔵院がある。
 本堂には、伝教大師の作と伝えられる本尊の延命・安産の地蔵菩薩、
右脇には、開山の夢想国師、宗鏡禅師。左脇には、開基の室町管領細川頼之の木像が安置されている。

 方丈前の庭園には、「十六羅漢の庭」と呼ばれている平庭式枯山水、名椿「胡蝶侘助」や
「五葉松」などとともに苔が美しい庭として有名である。
 この地蔵院の向かい側に敷地約1千坪の河原勝庭園の自宅兼会社がある。
表玄関は、地蔵院より少し南、左手の道を行くと石組みに植えられたキリシマツツジの塀囲いの中にある。
 表通りより約30メートルはある石畳みのアプローチを歩いて玄関に入ると、
左側の壁には宝暦年間に作られたと伝えられる「洛中図」が掲げられている。
 因みに、地蔵院の南隣は‘もみじ’で有名な浄住寺があり、苔寺バス停のすぐ先、
右手には1年中鈴虫が鳴いている鈴虫寺と呼ばれ、楓が美しい華厳寺がある。

 河原家は先祖代々、宮大工で明治期まで続いていた。造園業への契機となったのは、
先代(現在82歳で健在)が、昭和30年頃から植木を生業としたことに始まる。

 その後、石積みや石組みなどの石工事を専門とし、業界では「右に出る者はいない」と言われる
程になった。「石積み石組みは、将棋と同じ、石の重心を後ろにして、先を読むこと」だそうである。

 河原さんは、平成7年、34歳の時、次女の誕生を機に2代目として事業を引き継ぎ、
翌、平成8年に法人化して、代表取締役に就任した。
 河原さんは、昭和58年、京都産業大学法学部を卒業後、京都中央市場に勤務、
セリ人免許を取得し果物45種類のセリ人の仕事に就いた。
昭和63年、河原家の次女と結婚、婿養子となった。サラリーマンからの転職である。

 買い手の気持やムードを読む「人」を相手の仕事から石や木という「自然」を
相手の職人仕事にとまどい先代からは、「辞めて帰れ」と言われたこともあった。
また、「職人の技を活かすには、職人の心を掴め。
すべてを把握して率先して働く」ことをを身を持って教えられたと言う。

 事業を引き継いだ河原さんは、「家業から企業へ」、経営の安定化をめざして「植木」から「剪定」、
「剪定」から「造園」「庭のレイアウトへ」。そして、「茶室」「寺院の境内」、更には、「町家」「能舞台」へ。
今まで積み重ねてきた経験を持ち前の上昇志向で継ぎ合わせてその可能性を現実のものにしてきた。

 また、公共工事の入札にも参加し、平成17年には、京都御苑の「ウバメガシ」の剪定を受注、
平成20年には、桂離宮、平成23年には、京都御苑大宮御所(天皇陛下御宿泊御常御殿)
御内庭の白梅移植工事を宮内庁より受注している。
 河原さん曰く、「宮内庁には、伝統的な‘御所透かし’という剪定の技がある」。
 「透かし」剪定は、京都特有のもので、長岡京以西では「葉刈り」剪定しか見られないという。

 人は、環境に育てられて、環境を創る。
「緑や庭の空間を通して心やすらぐ憩いの場」を提供するのが仕事という河原さん。
 洛西の自然風土は、河原さんの審美眼に磨きをかけ、営業経験で培われた社会感覚とバランスよく培養されている。

 「一人が一人、飛躍し、ステップアップの年にしょう。そして、ステップアップした段階で、
それにふさわしい安定した会社にしたい」。河原さんの思いを込めた従業員への年頭の挨拶である。
 自らを取り巻くすべての環境、経験が資源となって、河原さんの「継ぐ」経営の原動力となっている。

 
                        


平成25年 1月25日
取材:岩本 昌信






南 弘晃さん 〜 風の吹くまま 気の向くまま 気負わない自然派 〜


南 弘晃さん  昭和40年4月26日 和歌山県海南市生まれ
            一級建築士事務所 南総合計画事務所 代 表
            協同組合 京都健康住まい研究会    理 事

【神社前にて】 【マンションのリノベーション】


【通圓の店内】 【蛭子神社】

 
 
 太陽の光は何色?無色それとも七色? 
花は、太陽の自然の光に照らされて、その花特有の色彩を輝かせる。  人は、自分の個性色を自ら輝かせる人といろんな人や仕事に引きだされて輝かせる人がいる。
 南さんの人柄や仕事ぶりをみていると、どうも後者のような気がする。

 今、彼は、和歌山で宅建業を営む4歳年下の妹とマンションの室内を個性的な部屋に模様替えするリノベーションの設計や土地購入のコンサルと設計、所有地の有効活用の設計などの仕事を手がけている。

 その一方、今、脚光を浴びている太陽光発電のシステム設計、レイアウト、そのための現地調査の仕事にも携わっていて各地を飛び廻っている。
リノベーションの仕事では、マンションのオーナーや入居者の意向に沿って、生活空間としての部屋の常識を打ち破る設計を楽しんでいる。

 今までの彼の仕事もユニークで多彩である。
 日本最古と言われる平安時代創業の宇治茶の小売店舗「通圓」の設計に携わったかと思うと、軽井沢で坂本龍馬の姉の子孫の別荘の設計、また、徳島県では、蛭子神社の設計など、どれもが専門的に特化した分野であるにもかかわらずそれぞれ専門的な光彩を輝かせている。一般家屋の敷地内にある蔵を「茶室」に設計した「蔵の中の茶室」は著名な雑誌にも紹介された。  
しかし、彼は、ユニークで多彩な実績にも気負いがない。
こだわりがない「それはそれ」という考え方、まさに南流である。

 この南さんの考え方は、彼の趣味にかいま見ることができる。趣味は、「ぶらぶら歩くこと、ドライブを楽しむこと」。そして、「そこで見たこと、出会ったことに関心、興味をもったら調べる趣味、そのうちのめり込んでしまうという趣味」である。  
毎年6月か7月には、奈良県の修行の聖地、大峰山で修験道に励んでいる。「観自在(般若心経)に興味を持ったことからのめり込んだ。
 
「しがらみの中の安定より自由でいたい」が心情である。
 南さんの家系は、江戸時代、和歌山県の黒江町(現:海南市)で黒江塗りと言われたうるし塗りの芸術職人であった。南さん曰く、「この血が流れている」。
 南さんは、和歌山県海南市で生まれ、小学校3年まで根来寺の近くに住んでいた。父親の転勤で千葉県へ引っ越し。千葉県立佐原高校理数科卒業と同時に単身で東京に住んだ。
「合格したところに行く」と決め武蔵工業大学(現:東京都市大学 工学部建築学科)に入学、卒業後、三洋証券に入社、投資情報部に配属。
「数字ばかりの世界」と会社のバスで会社と駅を往復する毎日に「自由」を求めて退社、横浜市内の不動産会社に転職。その後、同僚4人と独立して会社を設立するが間もなく解散、
東京に戻り、(株)ISS総合計画事務所に勤務、ここでの勤務が建物や建築家に関心と興味を持つきっかけとなった。

 京都とのかかわりは、「建都1200年」に興味をもったのがきっかけとなり、宇治市にある建設会社に就職、在職中に本会の上島さん、永谷さんと出会った。  南さんの「自由へのあこがれ・自然派の血」が風のふくまま気のむくままの環境を求め、求めた環境に育てられて、カラダの中に染みつき仕事を通じて輝いている。  

取材から起稿までかなりの時間が経過しました。これも南さんの影響?。
                        


平成24年 5月25日
取材:岩本 昌信





大塚 健三さん  繊細で大胆な楽天的行動派〜創業明治45年、100年目の決断〜


大塚 建三さん   昭和29年3月2日 京都市生まれ
                株 式 会 社  大 塚 工 業 所     会 長
              協同組合京都健康住まい研究会   理 事

【事務所にて】 【事務所 玄関】


【創業明治45年時の看板】 【創業時の貴重な写真などが掲げられている】

 
 濁流が車を、家を押し流し、山肌を飲み込んでいく。見慣れたあたりまえの風景、
あたりまえの生活空間がまたたく間に消え去った。リアルタイムで写し出される光景に目を疑いながら、
大塚さんは、テレビに釘付けになった。誰もが、あの出来事をきっかけに自らの生き方を問い直したように、
大塚さんも自分の人生の転機となるような影響を受けた。

 あの出来事、平成23年3月11日に起きた東日本大震災が、明治45年創業の大塚商店(現在、 株式会社大塚工業所)の伝統的な体質とバブル崩壊以降の経営課題に悩んでいた大塚さんに大きな決断を促した。
「あたりまえに永遠に続くと思っていた日常の生活を飲み込んでいく津波の濁流をみたとき、
心の奥底からこみ上げてくるものがあった。・・・自分も変わらなあかん・・・」

震災の年の5月 平成9年に5代目として引き継いだ社長職を辞任した。
「あと2年、少なくとも60歳までは社長を務めようと思っていた」。
 しかし、「今こそ、しがらみを断ち切ってゼロからスタート、若い力で新しい事業展開をする時では・・・」。
 創業以来、続いてきた大塚一族の社長承継を社員の村上さんに託し、大塚さんは会長職に退いた
 そして、創業以来の自社施工体制を外注体制に変えるとともに本社を中京区から右京区に移した。
  「自分が社長を引き継いだ時は、借金も引き継ぎ、しんどい思いをした。
引き継ぐ社長にはその思いをさせたくない」。
 大塚さんは、ゼロからのスタートできる体制を整えることを社長の最後の仕事として
その責務を全うした。
会長職になってからの大塚さんは、経営には一切口を出していないという。

 大塚工業所は、滋賀県高島郡(現在の高島市)出身の大塚さんの祖父大塚忠次郎氏が明治45年、
京都木屋町二条東、今は解体された旧ホテルフジタの南側に水道工事請負業 大塚商店を開業したところから始まっている。
  石盤に刻まれた創業時の 「 大 塚 商 店 」 の看板は、今も 右京区の本店事業所の玄関に、掲げられている。

 「会社は箱である。中身は変えても箱は箱」。大塚さんのこの言葉には、100年間の重みとプライドと変革する現在の厳しい経営環境とが交錯し、大塚さんが自問自答するセリフである。
 この自問自答から一歩踏み出すきっかけとなったのは、あの3月11日の大震災ではあるが、大塚さんの決断力、行動力は、すでに中学生の頃から育まれている。

 中学1年の時、所属していたボ−イスカウトで個人ハイキングがあった。
左京区大原の寂光院から鞍馬山を一人で歩くハイキングである。
 当日、出発地点の寂光院まで行くバスがストライキで運休となった。
「ラッキ−」と思ったのもつかの間、父親がタクシ−で寂光院まで送ってくれ、お陰で?
ハイキングを完歩できた。
 また、夜間一人ハイキングでは、真っ暗闇の山道を歩かされた。
 道案内は目的地まで山道に線引きされたメリケン粉、そのメリケン粉を懐中電灯で照らしながら
黙々と歩いた。
途中、修験者の灯すロウソクの火におびえながら、ハイキングというより行軍であったと言う。

洛北高校では、自分の通信簿(成績表)を見て、「勉強では大学にいけない」と悟り?
スポ−ツに熱中し、父親もやっていたラクビ−部に入部した。  
 中学の頃は貧血気味で病弱で、入部した時の体重は37キロ、身長は158センチであった。
 ラクビ−に熱中したお陰で晴れて京都産業大学に入学、大学のラクビ−部では、
9番スクラムハ−フのポジションを担った。スクラムを組んでいる後ろからボ−ルを入れ、
スクラムから出たボ−ルを投げるポジションである。
 後ろから指示し、全体的な動きや流れを読む習慣はこの頃に育まれたのかも知れない。

 入部2年後にCリ−グBからAに昇格した、大塚さんは現在、8期卒ラクビ−部のOB会長で、
今も仲間をまとめるリーダーとして欠かせない存在である。

 大塚さんの欠かせない存在は本会も同様で、特に、松山千春やフランク永井(知っている年代は
知っている昭和の伝説的歌手)を超える魅力抜群の歌唱力は懇親会ては今や欠かせない存在となっている。

 気配り、気働きが出来、人を楽しませる能力は、懇親会だけでなく、本会の活動にとっても、
今の社会にとっても欠かすことのできない必要な能力である。
 まだまだ若い兄貴分としての大塚さんのこれからが愉しみである。          

 
                      


平成24年 5月22日
取材:岩本 昌信






上島ひとしさん 〜感性をカタチに、自分スタイルの住まいづくりへの想い〜


上島ひとしさん  昭和32年10月19日 富山県生まれ
            一級建築士事務所アーキフィールド建築研究所 所長
            D&Dアーキテクツ 代表
            京都建築大学校 客員教授
            京都健康住まい研究会 副理事長

【事務所にて】 【主催する あなたの住まい塾】


【ゼミの生徒たちと】 【事務所にて】

 
  行楽日和。桜も見納めの4月17日の日曜日。河原町五条にある「ひと・まち交流館 京都」で、第6回「あなたの住まい塾」が開催された。 「リフォーム」がテーマのせいか、開催日前日に、京都新聞の告知欄を見たという中年女性から事務局に問い合わせの電話があった。当日には、新聞を手に参加する人の姿も見られた。

  「あなたの住まい塾」は、上島さんが企画しコーディネータを務めるセミナーで、上島さんの住まいに対する熱い想いが込められている。

  上島さんの「住まい」に対する熱い想いは、育った環境によるところが大きい。
農家で大工であった父親。自由な発想でのモノ創りへのあこがれが、東洋大学工学部建築学科への道を歩ませた。 大学時代には、オフコースの小田和正にあこがれ、音楽雑誌で知ったバンドのベースギターを担当し、ライブハウスで演奏。シングルレコード盤が発売された経験を持っている。

  「感じたことを自由な発想で表現したい」。この思いは、あらゆる面で上島さんスタイルである。数年前には、D&Dアーキテクツの事務所があった上京区室町の町内で 「昔の子供あそび」を企画し、竹馬・コマ廻しなど子供と大人が一緒にあそびを楽しむ場を提供している。

  「型」にはまらない子供心。感性をカタチにする芸術家肌が上島スタイルの源泉だ。
昭和63年には、「まちづくり設計競技・新しい都市型住宅地の設計競技」の準特選に選ばれ、 平成4年には、「神戸・狩口地域センター設計競技」(仮称)で佳作に選ばれたのも芸術家肌の創造性が評価されたものと言える。その生来の自由な発想が、布野修司(当時、京都大学大学院教授)の 「自然の住まい」に触れ、森京介建築事務所(東京)、浦辺鎮太郎建築事務所(大阪)での経験を経て、建築家としての社会的役割や使命を目覚めさせた。

  平成11年に設立された京都健康住まい研究会には、発足当初から参加し、自然と環境に調和する住まいや着工から完工までの施工過程の健全なシステム(K−ネットシステム)の提案を行い、実践している。

  「あなたの住まい塾」では、顧客の「自分スタイル」と言う感性をカタチにするため、上島さんが代表を務めるD&D(デザイナー&ディレクター)アーキテクツに登録する建築家とのコーディネートを行っている。

  「顧客の創造」。最近、上島さんがよく口にする言葉である。「あなたの住まい塾」も「顧客創造」の一環であると言う。お客様の求めている生活スタイルをカタチにするだけでなく、潜在する生活スタイルのニーズにも 応えようとしている。建てる前、建てる過程、建ち上がった後のニーズにも満足を与える新たな価値づくりが上島さんの「顧客創造」のテーマである。

  「顧客創造」の重要性は、ドラッカー理論により検証され実証された名言であるが、今の上島さんにとっては、あくまでも仮設であり実証するためのテーマでしかない。 感性を追い求めてカタチ(表現)にすることへの上島さんの情熱が「顧客の創造」にどのように生かされるか、上島流「顧客創造」が楽しみである。

  今年度も、また上島さんが主催する「あなたの住まい塾」が開催される。
                      


平成23年 4月20日
取材:岩本 昌信







永谷 英樹さん 〜学んで実践・夢紡ぐ起業家魂〜


永谷 英樹さん  昭和31年6月6日 京都府宇治田原生まれ
            株式会社 永谷木材 代表取締役
            京都健康住まい研究会 副理事長

【会議室にて】 【事務所入口】


【贈られた感謝状の数々】 【倉  庫】

 
  「社会の小さな歯車になる」。昭和58年12月、永谷さん創業の時の志しである。夫婦二人家業としてスタート。平成4年6月に法人化。現在、社員数14名の企業として成長の過程にある。

  「社会の小さな歯車になる」という永谷さんの志しは、その事業活動の中で垣間見ることができる。
  会議室に掲げられている感謝状は、地域の社会福祉施設に車椅子などを寄贈したことによるもので、平成19年9月から毎年寄贈していると言う。猛暑の今年はスポットクーラを寄贈した。 この寄贈は地域清掃のボランティアで回収したアルミ缶や古紙などを換金し、それを基金に行っている。まさに、地域に貢献する「社会の小さな歯車」である。

  また、事業活動での「小さな歯車」として、取引先の工務店の支援活動を行っている。平成17年から開催の「住まいるフェアー」「木工教室」そして「家守(いえも)り通信」の発行がそれである。 ちなみに、今年の「住まいるフェアー」は《エコして得する快適生活》をテーマに住宅版エコポイントコーナーやソーラーパネルを展示するとともに、木に絵や文字を描く「デコラティブペイント」も開催した。

  永谷さんは、高校を卒業後、大阪産業大学機械工学科夜間部に入学。昼は、大阪の建材会社で働く勤労学生で、将来は「母校の中学の先生にでも…」と思っていた。
  その永谷さんが起業を志すきっかとなったのは、父親の事業(林業・農業)のつまづきであったと言う。
  「実家を立て直すにはサラリーマンでは駄目だ」。経済的基盤の確立と安定への欲求が刺激されたのかも知れない。その後、父親の病気がきっかけとなって、   当時、勤務していた京都の木材会社を辞め、事業家に転進した。
  事業を始めて間がない頃、隣地境界のことで小さなトラブルがあった。この時、永谷さんは地域との信頼関係づくりの大切さを感じたと言う。
  このような体験を経て学んだことが「社会の小さな歯車になる」という志しの原点なのかも知れない。体験に基づく志しは、実践を通してより強固なものとなっているようだ。

  今、永谷さんは、「社員の幸福・未来が見える、京都で一番の木材店になる」ことを夢みている。
  そのためには、社員にそしてその家族に誇りを持ってもらえる会社をつくること。社内報「もくもく通信」の発行もその一環なのだろう。

  永谷さんは、毎朝、午前6時30分には出社し、プレーイング・マネージャーとしてその先頭を走っている。ちなみに、木材保存士・木材劣化診断士の有資格者としてその役割も担っている。
  『木の年輪のように 一歩一歩 着実に
        時流を見つめ 時流に流されず 大地に深く根を張り
                 空高く枝を広げる 大樹になろう いつの日か』
 これは、第19期 平成22年度・永谷木材「経営指針書」表紙を飾る文言である。

  取材を終えて、駐車場を出る時、一礼して見送る永谷さんの姿がサイドミラーに映っていた。
                      


平成22年 8月 3日
取材:岩本 昌信







松波 實さん 〜自分にまっすぐな熱中人〜


松波 實さん  昭和23年3月1日 京都生まれ
           株式会社 松波硝子店 代表取締役

【プレゼントされた車と一緒に】 【訓練校にて】


【自ら加工・工場にて】

 
  110キロあった体重が、今75キロ。特別なダイエットをしたせいでもなく、まして病気なんかでもない。普段?どおりの生活で減ったそうである。 「うらやましい」限りですが、松波さんの性格、生活ぶりからすれば納得できる。
  頼まれたら断らない、かかわったことは納得のいくまでトコトンやる。今、松波さんは、本業以外にも京都府板硝子商工業協同組合の常務理事として事務局の仕事をサポート。また、京都府板硝子技術高等職業訓練校のコンピューター授業の講師も務めている。

  コンピューターとの縁は、20数年前、自宅の浴槽の水が濁ることから循環式の浴槽装置に関心をもち、「水の浄化に関する論文」を発表したことからはじまる。
  「おもしろい」ことを探求する精神は、中学時代の理科の先生、特に実験レポートの作成で鍛えられたことによるものらしい。納得するまで質問し、質問され、先生を困らすこともあった。今でも本を読んで納得できなければ納得できるまで出版社に問い合わせると言う。そのせいか、コンピューターに関してはプロ以上の習熟者で 故障や使い方が分からないときは、「困ったときの松波さん」という松波さんだのみの人が多いのも納得できる。プロがやらない・やれないことを松波さんはやってのける。 この探求心は、プログラムの開発にまで及んでいる。そのプログラムを惜しみもなく同業者にでも無料であげてしまう。頼まれれば正月三が日であろうと、早朝、夜間遅くであろうと時間が許す限りかけつけてくる。しかもボランティアである。数年前、会員の南さんは「上京区の事務所の鍵が閉まらなくて困ったとき、西京区の自宅から松波さんがかけつけてくれた。 夜の11時頃だった」と言う。私たちの研究会の初期のシステムも松波さんのボランティアによるものである。なぜボランティアを?の質問に松波さんは「損得を計算する力がないから」 と言うが、松波さんは、商業・工業簿記1級、商工会議所1級の資格をもち税理士試験を受験したこともある。この探求心は、当然、本業の窓、風呂、玄関など規格外の特殊な加工技術にも活かされている。ちなみにガラス施工技能士1級の資格者である。

  松波さんの「おもしろい」ことを探求する心は、科学的な分野だけでなく「落語」にも及んでいる。まじめなお堅い話の最中に「ダジャレ」が出るのもそのせいである。 ほとんどが笑えない「ダジャレ」ばかりでこちらの方はあまり進化していないようだ。

  自分の性格についてどう思うか聞いてみた。松波さんは「融通がきかない、モノ事が論理的でなければ気持ちの中に入ってこない」と言う。そして、「人に喜んでもらうのが好き。それは自分が気持ちよくなるから。それに一番勉強になるのは自分自身だから、すべては自分に返ってくるから。」という答えが返ってきた。自分に素直、自分にまっすぐなのである。

  人は誰でも、自分の才能を世に問いたいという本能を持っている。その才能が評価され求められたとき人は更なる探求心をもって成長していくものなのかも知れない。
  松波さんの乗っている三菱ディアマンテは、松波さんにお世話になったお礼としてプレゼントされた車だそうである。
  「家内(妻)には負担をかけている」松波さんのつぶやきである。
                      


平成22年 4月 9日
取材:岩本 昌信







清水 仁さん 〜木造建築に魅せられた職人気質の経営者〜


清水 仁さん  昭和26年2月2日 兵庫県氷上郡(現・丹波市)生まれ
           橘工匠 株式会社 代表取締役
           京都健康住まい研究会 理事長

【事務所にて】 【表具師邸工事】


【町家修復再生工事】
(京都市姉小路通り)
【民家移築工事】
(彦根市)

 
  縁というものは、その人が求めているものとの出会いを用意してくれるものらしい。
  京都市内の中央部に位置する姉小路界隈は、京都市の「街なみ環境整備地域」に指定されている。橘工匠が請負った I 邸の改修工事は、姉小路通りの町家と町なみの 景観維持整備事業としてこの3月に完成した。駒寄せ垣、紅柄格子、蔵と住宅の白壁、そして格子戸が改修再生されて町なみにとけ込んでいる。この I 邸は、 先代社長の思い入れが深い建物で、10数年前には清水さんの手で増改築が行われている。清水さんが現在理事長を勤める、協同組合京都健康住まい研究会の設立取材の際には、 地元テレビのニュースでこの建物が紹介され放映されている。施主と施工者の永いお付き合い、これもまた京都の縁らしい。
  清水さん曰く、「建物は単なるハコモノではない。住まう人の個性・住まい方や家族のなごみがカタチになる。木造建築の魅力はそこにある。」 先代社長の背中を見て気くばり・思いやり・人のぬくもりのある施工を学んだと言う。
  清水さんは、木造建築に興味があり、大阪工業大学建築学科に入学。卒業後、藤木工務店に入社。木造建築を勉強したいという思いから木造建築に精通している 先輩を慕って倉敷支店の勤務を志願。旧倉敷紡績の工場跡をホテル(現アイビースクェアー)に建替える工事に携わった。ノコギリ型の屋根や古い材料・赤レンガなど工場の基本的な 構造をそのまま活用しての工事である。連日徹夜する程の厳しい工事ではあったが、木造を活かす工事の面白さを実感できたと言う。橘工匠の事務所には、このホテルの写真が 掲げられている。清水さんにとって入社間もないこの仕事が今の仕事に連なる縁であり、木造建築にこだわる出会いであった。
  なお、余談ですが、この写真は園部在住の清水さんの施主の息子さんがプロカメラマンとしてたまたま撮った写真の一枚だそうである。 縁はどこで出会いにつながるか分からない。
  清水さんには、木造建築に魅せられたもうひとつの出会いがある。昭和53年10月31日発行の『店舗と建築』(建築資料研究社刊)に こんな記事が掲載されている。「京の町家の面影を残しつつ、民芸調の感じを取入れた新しい感覚」と題して、京の表具師の店舗が紹介されている。 清水さんが先代社長から橘工匠入社後間もない頃に設計・施工を任された仕事である。「表は格子のある京町家。中は茶室風の数寄屋づくりで町なみに溶け込んでいること」 これが施主の要望であった。写真の掲載とともに「大屋根・下屋根ラインの直線的なつながり、ポーチの在来とのつながりをいかに処理するか。敷地の高低差をいかに処理するか。 外部の民芸調デザインから内部の数寄屋の部屋へと変化していく取り合いをいかに処理するか」など、清水さんの苦心談が掲載されている。
  匠の技が活かされた木造建築は、施主とともに永いお付き合いの中で風格を帯びてくる。平成19年には、かやぶきの民家を彦根市の琵琶湖のほとりに 移築する仕事にも携わった。
  今、清水さんはお寺の本堂を建ててみたいという夢を持っている。「お寺は匠の技を活かした木造建築の調刻美である」と言う。 職人の気質が新たな出会いを求めているのかも知れない。
  清水さんは言う。「仕事を卒業したら農業をしてみたい。」兵庫県氷上郡(現在は丹波市)の自然の中で育った子供の頃のような生活がしてみたいと言う。まだまだ遠い先きの先きの夢のようである。                    


平成22年 3月 31日
取材:岩本 昌信








村上 一博さん 〜豊かな感性、「左官アート」にかける夢〜


村上 一博さん  昭和33年5月20日 京都市生まれ
             株式会社 丸浩工業 代表取締役
             京都健康住まい研究会 理事

【事務所展示室にて】 【左官アート らでん】


【マルヒロ製 土塊ブロック】
(中京区こどもパトナ外塀)
【左官アート らでん】

 
  村上さんの今年のテーマは、「左官アート」である。漆喰をコテ仕上げしたベースにアワビの貝殻で「龍」を形づくった「らでん細工」はすでに完成している。 今年中に10作品を完成させ、ギャラリーでの展示を夢みている。
  村上さんの「左官アート」の発想は、左官のコテ仕上げの技術と美術を融合させることによって、左官のイメージアップを図りたい。 それは、左官の下地仕事を仕上げ仕事にしていきたいという熱い想いが根源となっている。
  村上さんは昨年の11月30日に創業から3代目、会社設立から2代目の社長となった。創業者の祖父から「断るな、出来ないことはない」 と教えられ、先代で現会長の父親からは「職は教えない。自ら考え創れ」と教えられたという。事務所の応接室には「成せば成る」の額が掲げてある。
  左官の家系に生まれた村上さんですが、左官一筋できたわけではない。京都教育大学附属高校を卒業し、龍谷大学経済学部に入学したが 2年で中退、アルバイトがそのまま仕事となり飲食業を4年、その後、税理士を目指して大栄経理学校で簿記の勉強をしながら、北区、上京区の区役所の 税務課、農政課で1年間アルバイト。村上さん曰く「100年位の人生を経験した」ことで人間観が養われ、人間関係の大切さを痛感したそうである。 昭和57年に結婚し丸浩工業に入社、親のありがたさをしみじみ味わったという。
  建設業界の不況が深刻さを増す昨今、「仕事が途切れることがない」のは、創業者や先代の教えが社風となっているからと村上さんは確信している。 今、丸浩工業は、左官職をベースにしながら技術改革、製品開発を行う環境提案企業として、土・古紙・木材などの自然素材を活用した「荒壁パネル」を京都大学防災研究所、 金沢工業大学と共同開発し、世に送り出している。この「荒壁パネル」は有害ガスの出ない難燃材・外壁防火構造として国交省大臣認定を受け、 また、耐震においても国交省大臣の認定を受け、平成21年には京都エコスタイル製品に認定されている。
  今、村上さんは、京都健康住まい研究会で「京都市国・残したい京都・伝えたい京都」のオピニオンリーダーとして京都の景観やまちづくり、 文化など世界の京都、日本の京都への想いの提案活動を行っている。
  感受性豊かな青春時代の多彩な経験と生まれ持った遺伝子とが村上さんの個性を開花させようとしている。
                   


平成22年 3月 1日
取材:岩本 昌信







山本 健弼さん 〜実直誠実・研究者肌の仕事人間〜


山本 健弼さん  昭和19年1月24日 京都府宇治田原生まれ
             株式会社 ホームコンサルタント槐(えんじゅ) 代表取締役
                   ・  しろあり防除施工士
                   ・ 蟻害・腐朽検査員
                   ・ 建築物環境衛生管理技術者
                   ・ (社)日本しろあり対策協会会員
                   ・ (社)日本ペストコントロール協会会員
                   ・ 京都府ペストコントロール協会会員
            京都健康住まい研究会 理事

【事務所にて】

【事務所に設置された研究用の巣】 【事務所に設置された研究用の巣】



 JR藤森駅の東側住宅街にある山本さんの自宅には、いろんな草花が自宅を取り巻くように植えられている。 自宅前にある事務所の庭にも、いろんな草花が植えられている。山本さんは、園芸ハーブが趣味でJR藤森駅前の花植えボランティアの一員でもある。 8年程前からは民謡を習い始め、ストレスの解消になっていると言う。
  山本さんの仕事は、しろありなどの木材害虫、ネズミ、トバトなどの害獣・鳥、ゴキブリ、ダニなどの衛生害虫、アブラムシなどの樹木害虫、 ムカデ、クモなどの不快害虫など感染症や伝染病につながる害虫などの防除、殺菌、消毒など細心の注意をはらいながらの仕事だけに、ストレスがたまりやすいという。
 山本さんは、4年ほど前、京都府丹波町(現京丹波市)で起こった鳥インフルエンザで鶏舎の消毒作業と半径50キロ以内の車両の消毒作業に携わった。 今は、平成7年に関西空港で発見されたセアカゴケグモ、ハイイロゴケグモなどの外来種の害虫が国内の各地で発見され、その防除・消毒などの対策だけでなく、 公園などで調査や予防対策など重要な仕事にも取組んでいる。また、環境問題や食品衛生問題は社会問題でもあり、この仕事の重要性は日々増しているという。 一方、社会ニーズの高まりと反比例して専門業者の社会的認知度は低く、詐欺まがいの商法も横行しているという現実がある。
 山本さんは言う。「キツイ、汚い、やりにくい。時間の定まらない仕事だけに、専門業者を育てることが大事」。昨年まで、京都府ペストコントロール協会の 会長として専門業者の育成に尽くしてこられた。
 山本さんとこの仕事のかかわりは、近畿大学農学部のときに知り合った京都大学木材生物学教室の西本教授の助言で、しろありの研究を卒業論文にしたことから はじまる。昭和51年に創立した「ホームコンサルタント槐」の社名は、西本教授の命名である。槐の木は、葉が早く大きく成長して、潤うという。
 山本さんの創業の精神は、文化財や一般家庭の建物を害虫などの被害から防止保護するということであった。創業から33年。山本さんは、多くの社寺仏閣などの 文化財、病院、民間企業、一般家庭など害虫駆除・防除・予防に携わって防止保護を実践してこられた。
 事務所に訪問してから1時間余り、山本さんの話は「仕事」の話ばかりであった。目を輝かせ熱心に話されるその姿は、研究者であり実直誠実な仕事人間の 姿であった。
 農産が脚光を浴びる昨今、衛生害虫に対する関心の目と研究の目とそれを実践する人々が求められていることを痛感させられた。自宅の草花も民謡も仕事人間 山本さんの心を潤すひとときなのかも知れない。


平成21年10月29日
取材:岩本 昌信







西平 勝幸さん 〜より良く生きる創意工夫は天草魂〜


西平 勝幸さん  昭和9年4月10日 熊本県天草生まれ
             西栄壁工業 代表者
             鞄本クリスター 取締役
             関西天草町人会 会長




  昭和55年8月1日の京都新聞朝刊に、西平さんの顔写真とともに、こんな記事が掲載されている。

  『賃金不払い分25万円寄託・ベトナム難民に恥ずかしい・「姫路市内の建設業者が、雇っていたベトナム難民に賃金を払わずに姿を消した」 こんな暗いニュースに心をいためた京都市内の左官業者が“同じ日本人として恥ずかしい”と不払い賃金分の現金25万5千円を31日、 京都新聞社会福祉事業団に寄せた。
 この人は、左京区田中門前町26、左官業や床材料の会社を経営する西平勝幸さん(46)で、29日の京都新聞夕刊の記事に、目がクギづけになった。 姫路市内の建設会社が、市内のカトリック教会に一時滞在しているベトナム難民5人を工事現場の土木作業員として働かせながら、一部賃金25万5千円を未払いのまま 姿を消している―というもの。
 西平さんは、熊本・天草の生まれで、幼い時に父親が足を切断する大けがを負い、生活苦と闘って学校を卒業、左官の弟子入りして腕をみがき、 やっと左官業の親方になり、従業員も使えるようになったとたん、今度は取引先の会社が倒産、負債を抱えて、自分の商売も破産の危機に直面した。 この時、 従業員らが給料の支払いをがまんしてくれ、商売仲間からも励ましを受け立ち直った―ことが頭に浮かんできた。(中略)同事業団では、近日中に姫路市内の ベトナム難民の人たちに贈るが、西平さんは「姿を消した建設業者も、資金繰りが苦しかったのでは。それにしても、異国の地で苦労して生活しているベトナム 難民のことを思うと同じ日本人としてつらい。自分もお金の苦労はし続けてきたので、こんなことをさせてもらった。」と、控えめに話していた。』 (記事原文のまま)。

 西平さんは、昭和27年、天草の地を離れ、長崎県佐世保市の左官店で見習修行をした。当時は、丁稚(弟子)4年、奉公1〜2年と言われる業界で、 「人が4年かかるなら2年で、2年かかるなら1年で」の心意気で弟子入りした。朝は、4時半に起きて朝食を作り、朝食を済ませてから5人分の弁当を詰めて、6時には 現場。夕方、7時頃に5人分の夕食の買出しと食事の準備、食事を済ませて後片付けを終え洗濯。寝るのはいつも11時頃。 その甲斐あって、京都に来てから弟子には食事の作り方から教え、45名の職人を育てた。「貧しいと言うことは、努力と創意工夫の宝庫」を体得したと言う。
 今から20数年前、異業種の会の家族例会で、瑞穂町(現・京丹波町)の質志鍾乳洞公園に行った時のこと、落ちていた麦わらをかき集めた 西平さんは、手際よくワラジを作って、作り方・使い方を子供に見せ、教えていたことがあった。あるモノを活かし、工夫する精神は天性のものなのか 幼い頃からの体験で培われたものなのか。どちらにせよ、今も脈々と西平さんの生活に活かされている。左官に使う三角のレンガゴテを四角にした鉄グワの考案をはじめ 自宅近くの空き地でできる青じその葉を乾燥させたお茶、大根の葉でつくるカンピョウなど、家庭用品に至るまで西平さんのまわりには創意工夫されたものが 数多くある。数年前、痛風で悩まされた時、水の大切さを痛感しイオン水やアルカリと酸性の分け方なども研究し、自然素材と健康にも思い入れは強い。 化学製品を使わない珪藻(けいそう)土を使用した健康スーパー壁や天草の石を使用したコンクリートの打ち放しも西平さんの考案のひとつだ。 西平さんの自宅の壁には、小さな苗を育て、青田刈りした米の穂が埋め込まれている。自然を活かし、身のまわりにあるものを活かそうとする姿勢が 西平流独創的考案の源なのかもしれない。
 「祖先なくては、人はない。恩を仇で返さず、毎日の仕事を通して、社会に貢献できる仕事をする事」西平さんの経営理念であり信念である。


平成21年9月3日
取材:岩本 昌信






半井 健治さん 〜一途な頑張り屋〜


半井 健治さん  昭和48年3月1日 京都市生まれ
             医療法人梁山会診療所で主任介護士として勤務
             同い年の奥様と16才の長男、12才の長女との4人暮らし

【利用者さんと診療所にて】



                                   

  8月11日、しょうざんで行われた納涼例会に久しぶりに参加されました。 半井さんは、研究会設立当初からの熱心な会員で、今は建設業界とは違う福祉の分野で頑張っておられます。
  半井さんは、東山高校卒業後、セコムに約3年勤務した後、お父さんの経営するオサム建材に10年間勤務、 独立願望が強く関連した事業で独立したものの1年後にお父さんが亡くなられたのを機に、 建設業界とは全く違う世界である医療法人梁山会診療所に介護士として勤務。建材というモノ売りの仕事からの転職に 「こんな世界があったのか」と、当初は戸惑うことばかり。
  診療所は、在宅での自立支援がコンセプトで難病者や認知症者の方もおられ、朝8時、車での出迎え、トイレ・入浴・食事など体力のいる介助の仕事で、 中学時代陸上部に所属し、200m短距離走で京都で2位になった体力でも、腰を痛め整体に通うこともしばしば。また気配りのいる仕事で、 同じ頃に入社した介護士も、今は少なくなっているとのこと。現在は、主任として介護の仕方などを指導する立場になり、 「コミュニケーションが大事。わかってあげようという姿勢が何よりも必要。利用者のありがとうの一言が嬉しい」というこの仕事のやりがいをみんなに伝え、 離職率を少なくしたい、そのことが利用者にとっても必要だと感じる今日この頃だそうです。
 今では、すっかり介護士となった半井さんですが研究会への想いは強く、自宅のリフォームも研究会に依頼され、これからも時間の許す限り研究会に参加して刺激・活力源にしたいとのこと。 カラダの健康や心の健康、住まいの健康に役立つコーディネーターを目指す志は今も健在です。
 お父さんへの想いも強く、21万キロを走行したお父さんの形見のホンダ・レジェンドを今も大切に乗り続けておられます。


平成21年8月12日
取材:岩本 昌信











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